ちょっと人情系入りすぎだけど、改善した後の短縮された時間をどう使うのかという認識が一致していないとうまくいかないというのは盲点だった。
改善するための前提
たとえば導入した結果、従来と同じ量の製品をつくるのに要する時間が、一時間短縮できたとする。この短縮した1時間をどう使うのか。そこをはっきりさせておかないと、時間を短縮した意味がなくなる。
自分の場合、効率的に仕事をして、余った時間は「より高度なことにチャレンジするか、早く帰って家で新規な技術を試すかっていうこと」に突っ込むの当たり前じゃんって思ってたので。
単に時間労働って考えている人にとっては時間ギリギリまで引き伸ばすのは当然の事なので違和感を感じるのかと気づいた。思い返せば確かにグダグダ言ってるな。
ホウレンソウとは
事実は起きた瞬間に事実ではなくなり、見たものの主観に左右されてしまうからである。主観で書かれたものは、もはや事実ではない。
プロジェクトの報告もプロジェクト側から語られるものはそういう性格を帯びる。そういうのを客観的に眺めたくて色々チャレンジしているところ。
僕もホウレンソウのうち報告と連絡は無駄だと思っている。あんなのはコンピューターが定期的にレポートを出して、相談に時間を費やすべきであろう。
ムダとはどこからみて
答えは、ひとつ。あくまでも「後工程」にとってムダかどうかである。
これはどうなんだろう。ちょっと悩んでいる。生産だとシーケンシャルだから、後工程ってのは直後の行程であることが多いだろう。多次元最適化とかやってる場合後工程ってのはデータが全部出揃ったとこのことなのだろうか?
失敗を貴重な体験と考えよう!